2017年10月02日

佐倉兵営跡の碑と今村均

千葉県佐倉の城址公園の自由広場の南西の隅の方に、佐倉兵営跡の碑が置かれています。

IMG_7897.jpg

兵営跡の碑は、1966(昭和41)年に、佐倉城址の歩兵第57連隊兵営跡に建てられましたが、国立歴史民俗博物館が兵営跡に建設されることになったため、1976(昭和51)年に、現在の場所へ移設されたものです。

この碑文の題字は57連隊の第17代連隊長だった、今村均(1886年―1968年)の書によるもので、今村が亡くなる二年前に建てられました。

IMG_7901.jpg

IMG_7909.jpg
これは、城址公園の自由広場をを北東から南西の方角を見たもので、佐倉兵営跡の碑は写真の奥の方にあります。

今村均は、1886(明治19)年、宮城県の仙台に生まれました。

1907(明治40)年、今村は陸軍士官学校を卒業していますが、このときの成績は30番くらいで、後述する本間雅春(1887年―1946年)が二番で卒業しました。

今村は子供の頃は夜尿症で、陸士在籍中も夜に何度も便所に立つため、講義中に居眠りをしていたためだとのことです。

今村と本間は陸軍大学校に進み、1915(大正4)年、陸大を今村が首席、本間が三番で卒業しました。

今村均は、1932(昭和7)年から翌年にかけ、佐倉の歩兵第57連隊長、その後は、関東軍参謀副長、陸軍省兵務局長、第5師団長等を務めました。

1941(昭和16)年12月の太平洋戦争勃発時は、今村均は第16軍司令官として、蘭印(オランダ領インドネシア)作戦、ジャワ攻略戦を、第14軍指令官、本間雅春が米国領フィリピン攻略戦、第25軍司令官、山下奉文(1885年―1946年)がイギリス領マレー作戦を担当し、それぞれが太平洋戦争の日本軍の緒戦を飾りました。

マレーの虎と称された山下奉文は、第14方面軍(第14軍から昇格)司令官として、フィリピンに逆上陸したアメリカ軍と戦い、部下の将兵の残虐行為の責任者として、1946(昭和21)年2月に、フィリピンで戦犯として絞首刑に処せられています。

日本軍のフィリピンにおける残虐行為は、山下の命令によって行われたわけではなかったので、山下に対する死刑判決は不当なものであったかもしれませんが、山下奉文が司令官だった第25軍は、同軍参謀だった辻政信の発案により、英領シンガポール等で中国系住民の大量殺害事件(華僑粛正事件)を起こしているので、これは山下の汚点であったと言わざるをえないでしょう。

本間雅春は欧米通で、欧米では人道主義者としての評価もありましたが、フィリピン戦における、1942(昭和17)年4月の所謂バタアン死の行進の責任をとらされ、1946(昭和21)年4月に、フィリピンに召喚されて、同地で銃殺により処刑されています。

なお、佐倉の歩兵第57連隊も、太平洋戦争末期のフィリピンのレイテ戦において、事実上、壊滅しています。

さて、今村均は、1942年(昭和17)年11月、第8方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウルに着任し、1945(昭和20)年8月の敗戦をラバウルで迎えました。

『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家、水木しげる(1922年―2015年)は、太平洋戦争末期、陸軍二等兵としてラバウルにおり、ラバウルにおける陸軍の最高司令官が今村均大将、最下級の兵隊が水木しげるだったわけですが、水木は視察に来た今村から声をかけられたことがあるそうです。

水木しげるは、『カランコロン漂白記』のなかで、今村は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と述べています。

第二世界大戦後、今村均は、オランダ軍の第16軍関係の戦犯裁判では無罪になっていますが、オーストラリア軍の第8方面軍関係の裁判で禁固10年を宣告されます。

今村は巣鴨拘置所に送られましたけれども、部下の将兵が多数服役している、パプアニューギニアのマヌス島の刑務所に収監されることを、自ら申し出たのでした。

1958年8月、マヌス島刑務所が閉鎖されたため巣鴨に移り、翌年11月に巣鴨を出所、その後、東京の自宅で謹慎生活を送り、1968(昭和43)年に死去しました。

ラビコンフォ[佐倉城址公園] http://blossam.sakura.ne.jp/sakura_joshi.php
posted by 益城四郎 at 21:14| Comment(0) | 城址公園
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: