2019年09月22日

満州事変の勃発と三人の佐倉歩兵第57連隊長

1931(昭和6)年9月18日、満州(中国東北部)の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破され、満鉄線路の警備に当たっていた日本の関東軍は、中国軍が爆破を行ったものとして軍事行動を展開します。

満州事変(9.18事件)勃発のきっかけとなった、この満鉄爆破事件は、関東軍参謀の板垣征四郎大佐と同参謀石原莞爾中佐等による謀略だったわけですが、千葉県佐倉の歩兵第57連隊(佐倉連隊)の連隊長だった三人の軍人が、深く関係していたのでした

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当時、参謀総長だった金谷範三陸軍大将は、第5代の佐倉連隊の連隊長でした。

今村均大佐は、参謀本部第二課(作戦課)長で、満州に出張中の建川美次参謀本部第一部(作戦部)長の代理として、柳条湖事件への対応に、陸軍参謀本部のなかで最も奔走した人物でした。
今村均大佐は、翌1932(昭和7)年3月、佐倉の第57連隊の第17代連隊長に転出します。

金谷範三参謀総長は、日本の植民地だった朝鮮にあった、日本陸軍の朝鮮軍司令官の林銑十郎中将に、命令があるまでは朝鮮軍を国境を越えて満州に入れてはならないと指示していました。
参謀本部の今村均作戦課長も、作戦部長代理として、戦火不拡大に努めていたのでした。

しかし、林銑十郎朝鮮軍司令官は、参謀本部の指示を無視して、独断で朝鮮軍を満州へと越境させます。
この林銑十郎も、第7代の佐倉歩兵第57連隊の連隊長だったのです。

1931(昭和6)年9月22日、朝鮮軍の満州への無断越境は昭和天皇の許可を得、朝鮮軍の独断越境問題は、88年前の今日、陸軍中央の追認という形で決着したのでした。

越境将軍として国民からやんやの喝采を受けた、林銑十郎は、翌1932年、陸軍大将に昇進、陸軍大臣を経て、1937(昭和12)年、内閣総理大臣となりますが、わずか4か月で倒閣し、「何もせんじゅうろう内閣」と皮肉られることになります。

柳条湖事件を発端として始まった満州事変は、その後、日中戦争、太平洋戦争と、1945(昭和20)年の日本の敗戦まで、15年にわたる長い戦争の端緒となったのでした。

なお、佐倉連隊の第17代連隊長となった今村均は、太平洋戦争開戦時には、第16軍司令官として、当時、蘭印と呼ばれたオランダ領インドネシア攻略を担当し、1942(昭和17)年11月に第8方面軍司令官として南太平洋のニューブリテン島ラバウルに赴き、1945年8月の敗戦をラバウルで迎えています。

佐倉城址公園の自由広場の奥にある、佐倉兵営跡の碑の文字は、元陸軍大将今村均の書によるものです

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2019年09月14日

台風15号通過後数日たっても大木が倒れままになっていた佐倉城址公園

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台風15号が9月9日に千葉県に上陸した直後に比べれば、だいぶ片付けが進んではいますが、千葉県佐倉の城址公園では、数日たった後も大木がたくさん倒れていて、佐倉城址公園は立ち入り禁止になっていました



台風通過の翌日、佐倉城址公園はまだ立ち入り禁止になっていなくて、城址公園を通って国立歴史民俗博物館に行ったのですけれども、大きな木があちらこちらに倒れていて、倒木を迂回しようとしても、まるでジャングルのように倒れた木が行く手を阻み、通り抜けるのが不可能なような状態でした。

千葉県各地では、今でも、停電や断水しているところが多くあり、住民の生活に大きな支障が出ています。


佐倉城址公園は、今でも上のような状態ですけれど、台風の二日前には、JCI主催の千葉ブロック大会 佐倉大会が開催され、多くの人が訪れていました。

下の動画は、その時の様子です。





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