2019年01月16日

太陽が明るさを取り戻している

今年、2019年1月の千葉県の日の出の時間が一番遅かったのは、国立天文台のページによると、1月15日までの午前6時49分でした。
1月16日から18日までは6時48分、19日と20日は6時47分と、だんだん夜明けの時間が早くなっていきます。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/2019/s1201.html

千葉県で日の入りの時間が一番早かったのは、去年の12月13日のこのブログで記したように、12月2日から9日の午後4時27分でした。
現在では、太陽が沈むのは、1月15日で午後4時49分、16日が4時50分、17日が4時51分と、どんどん日が暮れる時間が遅くなってきています。

まだ寒い日は続きますけれども、陽の輝きは一日一日と強さを増していき、太陽は明るさを取り戻していきます

ラビコンフォ[夕日 Sunset] ([朝日 Sunrise]のページはありません)http://blossam.sakura.ne.jp/sunset.php
posted by 益城四郎 at 12:05| Comment(0) | 日記

2019年01月08日

石田甚太郎さんの意見陳述書

平成の最後の年が始まりました。
このところ石田甚太郎さん(本名 正木欽七さん)から年賀状が届かないので、消息を確かめてみようとインターネットを検索し、二年前に亡くなられていたことを知りました。

石田さんに最初にお会いしたのは、私がフィリピンのマニラに住んでいた時のことで、もう30年前の1988(昭和63)年の10月でした。翌1989年の今日1月8日に元号が昭和から平成に改元され平成元年となります。

当時、日本人の友人としてはフィリピンで最も親しくしていたF君が勤めていた事務所で石田さんお目にかかり、庶民的なところで昼食をとりたいとおっしゃるので、私がよく行っていた屋外にある安い大衆食堂に石田さんをお連れしたのでした。
ところが、その日の晩にF君は自宅の前で殺害されてしまいました。あまりに衝撃的な出来事だったので、その二、三日後のことだったのかしれませんが、石田さんにはじめてお会いした日に、F君が殺されてしまったように私は記憶しています。

石田甚太郎さんは、フィリピンでアジア太平洋戦争中の日本軍の住民虐殺のことを調べられていて、その後、私も石田さんと住民虐殺の現場を訪れることになりました。

インターネットで下記のURLを開いていただくと、そのページのなかに石田さんの遺稿ともなったという意見陳述書のリンクが貼ってありますけれども、その陳述書を転載させていただきたいと思います。
https://globalethics.wordpress.com/2016/12/19/
いろいろとご本人からうががってはいたのですが、次の文章を拝読すると、石田甚太郎さんの歩まれた人生、石田さんの考えていらっしゃたことがよくわかる気がします。



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2016年5月24日
意見陳述書

さいたま市桜区●●● 原告 正木 欽七 (ペンネーム石田甚太郎)

1.兄がガダルカナルで戦死

私は 1922 年 3 月 27 日生まれ、現在 94 歳です。生家は福島県浜通りの貧困農家で、8 人兄弟(7男1女)の 5 男でした。長兄は家計を助けるため、東京に出稼ぎに出ました。母は私が小学校 5 年生の時に病死し、私は中学生になると18歳年上の次兄の養子となりました。次兄は横浜で証券会社で成功しており、私をミッション系の旧制専門学校に通わせました。学校では経済学を学びましたが政情には疎く、代返を頼み授業を抜け出して伊勢崎町に映画などを観に行ったこともありました。学校では軍事教練があり、大変嫌でした。軍事色が強まる中、アメリカ人宣教師は学校を追われ、日本を脱出してフィリピンの山中で捕えられ殺された、と後になって聞きました。
私が戦争を強く意識したのは、1942 年の夏、4男の兄がガダルカナルで戦死した時です。戦死の報が入り、父が平駅(現在いわき駅)に白木の箱を受け取りに行きました。私はまだ学生で福島に帰省し海水浴を楽しみながら夏休みを過ごしていた時でした。白木の箱があまりにも軽いので誰も居ない時にそっとその箱を開けると、中に遺骨はなく短冊が1枚入っているだけでした。その短冊には、 「ご子息の遺骨だと思い御霊として大事にするよう」と書かれていたと記憶しています。


2.入隊して軍隊の理不尽な暴力を知る

ミッションスクールなので毎月曜日第1時限は教会のミサに出席して、そのような雰囲気に慣れていたためか軍国教育に内心反発を感じて、兵隊になりたいなど思ったことは一度もありません。
しかし20歳の時に徴兵検査があり体格が悪いためか乙種合格でした。戦局悪化により学生の入隊1年延期制度が廃止になり、半年経てから召集の赤紙が来ました。海軍水兵として「横須賀海兵団」に入隊し、厳しいしごきが始まりました。海軍ですからハンモックを吊る、寝る、すべてが競争で敏捷に動かないと問答無用で殴られました。義理の母が面会に来た時に、私の目の周りに痣があり殴られた跡が痛々しく残っていて驚いたようです。船のようなデッキ清掃などで冬季は手の甲が霜焼けで脹れあがり、医務室に通いました。横須賀では通信学校に半年位通い、当時は最新兵器であった電波探知機について訓練を受けました。基礎訓練、技術訓練を1年受けました。私は反抗的であったためか上官からのいじめがあり、先が見えず暗澹たる思いで過ごしました。その後福島県浜通りにある電探基地(電波探知基地の略)に配属になりました。ここにも米軍1.2機による空襲があり、逃げ込む防空施設もなく、機銃掃射に恐怖を感じながら身を縮め飛び去るのを待った経験もあります。
1945年広島の原爆投下直後、呉に転勤を命じられ、たった一人で身の回りの物をリュックに詰め急ぎ広島に向かいました。広島の街の惨状は目を覆うばかりでした。私はすぐに海軍巡洋艦の電探任務に就きましたが、終戦の玉音放送は聴いておりません。巡洋艦艇長から横須賀に帰るよう命令があり、瀬戸内海を巡洋艦で走行中に終戦が伝えられました。「負けてなるものか」と言っていた艇長は、2、3日経ると「負けたのだから、潔く負けようじゃないか」と言うようになり、ほっとしました。「戦争に負けて嬉しかった。これで生きて家に帰れる」というのが私の本心でした。横須賀に戻って2、3日後に帰宅命令が出ました。野間宏の「真空地帯」で描かれているような軍隊の暴力は日常茶飯で、 「こんな軍隊があってたまるものか。戦争は負けるに決まっている。お国のために戦いたいとは思わない」、それが私の本音でした。終戦直前の8月に専門学校は繰り上げ卒業となり、義父の仕事を1年ほど手伝いました。


3.沁みついた軍国主義が抜けない教員

戦後の混乱で教員不足により募集の話があり、福島の泉中学校に社会科教員として赴任しました。新制中学でしたが、設備が整わず、小学校の中廊下を仕切って教室にし、授業中に人が通り抜けるような環境でした。生徒達は反抗的ではなかったのですが、私は大声で怒鳴ったり、生徒にビンタしたこともありました。今から思うとひどい教員でした。あんなに嫌悪した軍隊の暴力主義が私の身体に沁みついていて生徒たちに愛情を注ぐことができませんでした。
5年ほど勤務して、東京の知人からの紹介で埼玉県北足立郡土合小学校に移りました。ここでも子どもたちと一緒にグランドで遊ぶことよりは、休み時間は渋いお茶をすすり休憩をとることを選びました。この頃から貧しい時代の子どもたちの姿を描いた短編作品を書き出し、街の文芸誌に投稿したりしていました。雑誌「教育」に投稿した小説で受賞したことがあります。野間宏が選者で、「子どもの眼を通して時代を描いている」と評価されました。戦地に行かなくても軍隊時代の心の傷が癒えないままに教育にも情熱が注げず、55歳からは小説を書くことも苦しくなりました。1977年、煩悶の中で教職を辞める決断をしました。


4.作家活動を通して日本の戦争犯罪に迫る

己を見つめることから日本の戦争犯罪をテーマに描きたいと思うようになり、沖縄、フィリピン、ガダルカナル、中国と長期滞在し取材をしました。 初めに、沖縄に根を下ろして感覚的に沖縄の生活を知ろうとしました。親しくならないと語ってくれないのです。妻と一緒に家を借り、隣のお婆さんと激戦地を尋ねました。沖縄には 2 回、通算 2 年半住み、ウチナンチューを通して沖縄問題を書きました。沖縄は圧政と差別の連続です。薩摩藩の侵攻、明治政府の琉球処分、太平洋戦争時は日米の激戦地となり 4 人に 1 人が犠牲となったのです。そして戦後も米軍の統治が続き 1972 年日本に復帰後も米軍基地の 74%が沖縄に集中する差別状況が続いているのです。「ヤマトンチューの沖縄日記」や「引き裂かれた家族」などを上梓しました。
日本軍のアジアへの侵略戦争の真実に迫るには、現地で通訳を雇わなくてはならない。そのため共通語である英会話を習得するためアテネフランスに 2年間通いました。フィリピンではマニラに 1 年ほど一人でゲストハウスを借り生活の拠点にしました。私のことを、「この人は年寄で戦争犯罪者だ。どういう仕返しをされるか解らない。取材に協力しても気を付けろ」と言いふらされました。私は慎重に警戒しながら道のない田の畔を素足で歩き、部落から部落へと移動し、1年間の取材で約 500 人から聞き取りして住民大量虐殺、銃剣での惨殺や婦女暴行の証言を集めました。
戦時中の日本軍は、ルソン島南部の村で「スパイがいる」ということを口実に、村を包囲しカトリック教会に住民を集め、焼殺した事件も起こしました。マカペニ(日本軍スパイの意)の密告で虐殺が起こったのです。日本軍が現地の住民を捕まえマカぺ二として養成し、マカぺ二も従わないと殺されてしまうのです。1つの村全員が虐殺されることもありました。


5.再びワランヒヤ(恥知らず)になるな、私の精神的苦痛

 アジア各国を巡り、日本軍による残虐非道な住民虐殺の実態を現地の多数の犠牲者から聞き取りを重ね「ワランヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録」「殺し殺された―元日本兵とフィリピン人200人の証言」、戦時性暴力(慰安婦)をテーマにした「ロラたちの青春」などを書き上げました。その中で何人もの人から、「ゲリラ掃討」した日本軍の残虐行為は「ワランヒヤ(恥知らず)だ」と、タガログ語で聴きました。ワランヒヤの日本人のひとりだった私は当時、被植民地アジアを解放し大東亜共栄圏建設のスローガンに酔い、侵略していることに気がつかなかったのです。私がフィリピン戦に動員されていたら、敵前逃亡するよりも上官の命令に従い罪のない人々、婦女子まで銃剣で突き刺す側にいただろう。また、立場を代えフィリピン人だったら、抗日ゲリラ運動に参加していたに違いないと思うようになりました。加害国日本は、政治家の繋がりで特定の人には賠償金を支払っていたが、多数のフィリピン一般の犠牲者に対し1ペソの補償金も支払わず、謝罪もしていないのです。
私は戦争を憎みます。誰もが殺したくないのに、殺さなければ殺されるので野蛮な殺人者に転落し、しかも大量殺人しても罪にならないのが戦争です。人間を非人間化し人類の最大の退廃だと断言できます。軍国主義の残滓がこびりついている私だからこそ、再び戦争が起こらないことを強く願っています。現在、車椅子の生活で安保法制反対の集会やデモにも参加できないことをもどかしく思います。先の侵略戦争の反省に欠ける安倍政権により、また同じ戦争への道を突き進む安保法制施行の現状を憂います。戦争の非人道性を知る者だからこそ、過去の戦争の様々な場面が悪夢のように想起され、胸が苦しくなります。  



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2019年01月03日

千葉県の観光スポットの一つになった佐倉のひよどり坂

我が家の近くにある、千葉県佐倉市のひよどり坂が、旧臘12月、LINEトラベルjp の旅人が決める観光スポット大賞2018特別賞を受賞しました。

そして、レンタカーの営業所に置いてあった、千葉県商工労働部観光誘致促進課発行の『ちばnote』の2019年1月・2月号の表紙も、ひよどり坂の写真でした。

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ひよどり坂も、千葉県の代表的な顔の一つ(?)となったようです。

正月三が日の佐倉のひよどり坂です。
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江戸時代、佐倉藩士たちが、佐倉城に駆けつけるために登った道ということで、ひよどり坂は、サムライの古径(こみち)と呼ばれているのだそうです。


ひよどり坂は、最近、時々、コスプレ大会の会場になっています。
先日も、刀剣男士に扮した人たちが、ひよどり坂をバックに写真を撮っていました。


竹に囲まれたひよどり坂を登ると、侍の杜、それから佐倉武家屋敷があります。
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武家屋敷は、明日1月4日まで年末年始の休館で、明後日1月5日(土曜日)から開館されます。

ラビコンフォ[佐倉 Sakura] http://blossam.sakura.ne.jp/sakura.php
タグ:ひよどり坂
posted by 益城四郎 at 20:50| Comment(0) | 日記