2018年03月21日

The Huk Rebellion

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千葉県佐倉市にある、国立歴史民俗博物館友の会の近現代史の自主学習会で、「パンティガン川の虐殺」と題して報告を行いました。

パンティガンの虐殺とは、1942(昭和17)年4月、日本軍によってフィリピン人捕虜400人が殺害されるという、中部ルソンで行われた、所謂バタアン死の行進のなかの最悪の虐殺事件でした。

報告した内容は、次のURLのものと、ほぼ同じ内容のものです。
ラビコンフォ[パンティガン川の虐殺 Pantingan River Massacre] http://blossam.sakura.ne.jp/pantingan.php

学習会では、報告の趣旨が不明確だという趣旨の指摘がありましたが、パンティガンの虐殺だけではなく、バタアン死の行進やオードネルの俘虜収容所についても触れたため、論点が定まらなくなってしまったのかもしれません。

第二次世界大戦後のフィリピン人の対日感情についての質問もあったように思います。

戦争中、フィリピンで日本軍が多くの残虐行為を行ったため、フィリピン人の対日感情は非常に悪化します。
しかし、フィリピン人の対日感情には、もう少し複雑な要素もあるかもしれません。

それについては、上記の学習会では言及しませんでしたけれども、米国の政治学者、Benedict J. Kerkvliet の著書 The Huk Rebellion: A Study of Peasant Revolt in the Philippines, Berkeley, 1977 が、一つのヒントを与えてくれるかもしれません。

Kerkvlietはルソン島中部の農民に聞き取り調査を行い、同書を著しました。
読んでからだいぶ年月がたつので、多少記憶が曖昧になっている点があるかもしれませんが、第二次世界大戦中の日本軍のフィリピン占領中の様子について、多くの示唆を与えてくれた本でした。

ルソン島中部では、第二次大戦以前から農民運動が活発でしたが、戦争中、地主達は日本軍の占領するマニラに移り住み、中部ルソンはゲリラ組織、フクバラハップ Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon (抗日人民軍)によって、農民の解放区の様相を呈していました。

当時、農作物の収穫が豊作だったこともありますが、地主層の収奪から解放されていた、日本軍占領下の生活の方が、地主達が戻ってきた戦後よりも楽だった語る農民もあったとのことです。

第二次世界大戦後、マニラから中部ルソンに戻った地主達は、私兵やPC Philippine Constabulary (フィリピン警察軍)を使って農民を圧迫し、1946年にフィリピンがアメリカから独立すると、フィリピン政府軍によるフクバラハップ の弾圧も始まります。

上の写真は、バタアン州の州都バラガで2008年4月に撮影した、毎年行われるバタアン死の行進の再現パレード、州庁舎前のパンティガン虐殺の展示、そして、2009年1月に撮った、抗日そして反政府ゲリラの拠点となった中部ルソン、パンパンガ州のアラヤット山 Bundok Arayat です。

posted by 益城四郎 at 23:25| Comment(0) | 日記